沢野ひとし【食べたり、書いたり、恋したり。】第32回『焼いた里芋』

長い長いその一日、少年はきっとたくさんの大切なことを学んだのでしょうね。イラストレーター・沢野ひとしさんが“食”にまつわる思い出や発見を、文章とイラストで徒然に綴る連載です。沢野さんの新刊『中国銀河鉄道の旅』にも、まだ学んだことのない未知の世界が広がっています。
高校時代を過ごした家は5分ほど歩くと、千葉の遠浅の海が広がっていた。私はよく学校を休んで、釣りに没頭していた。防波堤にポイントを決め、その日の収獲に夢中になった。ハゼ、ボラ、メバル、時にはカレイを釣り、夕食には、その釣果を家の者に披露しては喜ばれていた。大漁に母親は「偉い子だね」と満面に笑みを浮かべた。食べ切れずに残った魚は干物にして、きちんと保存食とした。またアサリ、ハマグリ、マテガイなど、貝類を採ることにも力を発揮して、時には岩の下のタコまでも竹の背負いカゴに入っていた。
何カ月もかけてカヌーを自作して、沖に出ては一人海の男の気分に浸っていた。ズル休みをして海に出た翌日は、日焼けした私の顔を同級生が指差して「ようー海の男」と苦笑いをしていた。
手作りのカヌーは安定性を良くするために、舟の外側に腕木を張り出し、アウトリガーカヌーに改造して、犬と一緒に海に出ることもあった。波のない遠浅の海と思って油断していると、時おり沖に流され、溺れて亡くなる人もいる。普段は鏡のように穏やかな海に見えるが、海中には川のように激しく流れ、渦を巻いている危険なところもあった。
舟に乗り海に出ると、なによりも自由が体を包む。青い空を見つめていると、その頃人気があったアラン・ドロン主演の名画『太陽がいっぱい』のメロディが、自然に口からでてくるのであった。あるいは『海の野郎ども』などの石原裕次郎に成りきっていた。裕次郎の海を見つめるまぶしそうな表情に憧れていた。さらにいつも、好きだったバレーボール部の女子生徒と話す会話を考えていた。
夏の終りが近づいてきたある日、いつものように海に出ると、舟は思いがけず沖へ沖へと流されていった。櫂でいくら戻そうと漕いでも、陸ははるか遠くに離れていく。やがて夜の闇が海を覆いはじめた。身の危険を感じた私の体の中で、非常事態を知らせる警報の明かりがチカチカと点滅するようだった。
しばらく経ち、いくらか覚悟を決めはじめたその時に、遠くからいそ釣りのエンジンの音が聞こえた。タオルをあらん限りの力で振り回すと、しだいに船が近づいてきて、中学時代によく私を小突いていた不良の同級生が、顔がそっくりな父親と一緒に乗っていた。
「お願いします」「助けて下さい」
私は大声で叫びタオルであふれる涙を拭いていた。
「ようー久し振り」
彼は中学卒業と同時に本物の漁師になっていたのだ。赤銅色した顔と鍛えられた体に私は打ちひしがれた。
エンジンの付いた船にロープで結ばれると、舟はあっという間に浜に着いた。
浜辺の漁業小屋の前で、大人たちは一升瓶から湯飲み茶碗に酒を注ぎ、酷使した体を休めていた。
大きな鉄製の網の上で、ハマグリ、アサリ、メバル、タマネギ、ジャガイモ、ナス、皮付きのニンニク、トウモロコシなどが無造作に焼かれている。
網の上には小石もいくつか焼かれていた。同級生は慣れた手付きで、ドンブリを並べ、その中にミソ、刻みネギ、焼いたハマグリを入れ、そして冷めたご飯をよそった。バケツからひしゃくで水を入れ、そこに真っ赤に焼けた小石を、使い込まれた皮の手袋で掴み入れた。
音をたてて蒸気が立ち上り、ドンブリの中は一瞬にして煮え繰り返った。焼けたミソの香ばしい匂いが一面に漂ってきた。
「体が温まるぞ」と、私の前にもドンブリが置かれた。
そして「こいつもうまいよ」と焼いた里芋を藁の上に投げ、ニヤリと笑い、「ようー海の男」と言った。
【食べたり、書いたり、恋したり。】は、ほぼ隔週水曜日に掲載します。
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