沢野ひとし【食べたり、書いたり、恋したり。】第36回『おふくろの味』

沢野さんが食事やお弁当作りを大切にするのは、お母さんの思いをしっかり受け継いだ証かもしれません。イラストレーター・沢野ひとしさんが“食”にまつわる思い出や発見を、文章とイラストで徒然に綴る連載です。最新刊『中国銀河鉄道の夜』にも切ない思いが詰まっています。

 子どもの頃はカレーライスが大好物であった。夕方、遊び疲れて野球のグローブを手に家に近付くと、いい匂いがしてくる。
「あっカレーだ」
 それだけで涎(よだれ)が出そうだ。
 母の作るカレーはどこの家庭でも作るカレーと同じで、たぶんエスビーカレーの味であった。香辛料にこだわる時代ではなかったが、飽きることもなかった。
 子ども五人と両親の、家族七人が、夢中になってカレーを食べていた。カレーが無くなると、福神漬をおかずに、麦が入ったご飯をよそっていた。まだお米は不足しており、価格も高い戦後であった。




 次の日の朝は、カレーが僅かに残った鍋に水を足し、白菜などの野菜を入れ、味噌を加えてお汁を作った。
 いつもの味噌汁とちがってこれがことのほか“こく”があり、美味しかった。兄と残り少ない福神漬を取り合ったりもしていた。私の「おふくろの味」はこのカレーライスの次の日の、カレー味噌汁と言いたい。
 また、このカレー味噌汁については、フォーク歌手のなぎら健壱氏が、ある雑誌の「おふくろの味」の特集で、私とまったく同じことを話していたので、大変に驚いた。




 洋裁店を営んでいた母は、朝から晩まで目まぐるしく働いていた。手が込んだ料理を作ることはなかったが、どれも美味しく、子どもたちは残すことがなかった。そしてどんなに忙しくても、店屋物や出前を取ることはなかった。自分たちが食べるものは自分たちで作る。それが母の信念であった。
 母の漬物は薄味で、さっぱりとしていた。とりわけ大根の葉っぱ漬はご飯の友だ。あるいは夏などスイカの皮の漬物も登場した。そしてニンジンの葉のピリ辛油炒めも、よくお弁当に入れてくれた。
 そんな母だが、白い割烹着を着た姿や浴衣姿を一度も見たことがなかった。おそらく洋裁店のプライドがあったのだろう。




 私が高校生の頃、あれほど毎日忙しく働いていた母が、時おり放心したように窓の外を見ていることがあった。学校から戻ると、台所でイスに座った母の後姿があった。なぜか声をかける雰囲気ではなかった。しばらくして「ただいま」というと母は「ああ、お帰り」と言って、なんと涙をしきりに拭いていた。




 一カ月ほどして母は乳癌と診断された。それから母は仕事で外に出ることもなく一日中ボンヤリして、布団に臥(ふ)せっていた。その時にはじめて浴衣姿を見た。
 チキンラーメンが出始めた頃で、便利で美味しいと母も喜んでいた。しかしそれさえ口にする体力が、次第に無くなってきていた。
 その後、母の体調は急速に悪くなり、リンパ節や肝臓に転移して、専門病院に入り、半年ほどして亡くなった。
 まだ五十二歳の若さで、私が十九歳の冬のことである。二人の妹はいつまでも母を思い泣いていた。
 母はたい焼きが好物であった。母が逝った冬にたい焼きを見るたびに、ふと元気な頃の姿を思い出し、今でも少し胸がつまる。




【食べたり、書いたり、恋したり。】は、ほぼ隔週水曜日に掲載します。
 

文・イラスト:沢野ひとし(さわの ひとし)/名古屋市生まれ。イラストレーター。児童出版社勤務を経て独立。「本の雑誌」創刊時より表紙・本文イラストを担当する。第22回講談社出版文化賞さしえ賞受賞。著書に『山の時間』(白山書房)、『山の帰り道』『クロ日記』『北京食堂の夕暮れ』(本の雑誌社)、『人生のことはすべて山に学んだ』(海竜社)、『だんごむしのダディダンダン』(おのりえん作・福音館書店)、『しいちゃん』(友部正人作・フェリシモ出版)ほか多数。趣味は山とカントリー音楽と北京と部屋の片づけ。還暦後より中国語を学び続け、もはやライフワークでもある中国での放浪を綴った最新刊『中国銀河鉄道の旅』(本の雑誌社)が好評発売中。

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