沢野ひとし【食べたり、書いたり、恋したり。】第38回『憧憬の松本』

通い慣れた旅先だからこそ、新しい“発見”の喜びもひとしおなんですね。イラストレーター・沢野ひとしさんが“食”にまつわる思い出や発見を、文章とイラストで徒然に綴る連載です。8月18日(日)まで、栃木県の那須ブックセンターで、沢野さんの原画の展示と即売会が絶賛開催中です。

 松本の町をはじめて歩いたのは十七歳、高校二年生の時である。槍ヶ岳から穂高の山に登った帰りに、夜行列車までの時間、ひたすらクマのごとくうろうろと町を何時間も探索した。一人だったので思い出は深い。
 二十代も山登りのことしか頭になく、北アルプスでの登山の帰りはいつも、松本で一杯飲んでは、列車に乗るまでの時間調整をしていた。

 三十代は児童出版社の営業となり、松本周辺の書店、あるいは地元の取引先の人と共に幼稚園、保育園をくまなく歩いていた。秋の日、コスモスの広がる向こうに、夕暮れの峰々が連なっているのを見ると、胸が詰まる思いがした。
 自由業になった四、五十代にはもう一度のめり込むように北アルプスの山に通っていた。
 山の仲間は大酒飲みが多い。穂高の春山に行った帰りに、例によって松本で酒を飲み、おだをあげすぎて最終の夜行列車に乗りそびれてしまったことがある。朝まで駅前で抜け殻のごとくボーっとしていた。


 なにかの拍子に信濃・信州と聞いただけで、透明な山並みや涌き水の小川を思い、恋をするかのごとくときめく。何十回と通えば、おのずと行く先も決まってくる。古書店、喫茶店、中町通りの万年筆専門店、蕎麦屋、居酒屋とみんななじみの店だ。
 女鳥羽川(めとばがわ)沿いを散歩して、山の姿を見るだけで、旅情にうっとりする。このごろは日帰りで松本に行くことも多くなった。たしかにあわただしい時もあるが、行く所や見る物を絞ればいいだけだ。今回は松本民芸館だけで満足した。
 帰りの列車の時間まで少し余裕があったので、松本城の近くの、風情ある老舗の居酒屋で飲んで行こうとタクシーに乗ったのだが、「まてよ」と一瞬考えてから思いなおし、「松本駅まで」と運転手に伝えた。
 駅ビルの上の店なら乗り遅れることはない。



「松本からあげセンター」で名物の山賊焼きを肴(さかな)に飲んでいた。新鮮な朝締めの鶏を、りんごを使った信州秘伝のタレに漬け込みカラリと揚げる。その大きさに注文した人は誰しもおののく。
 ふと目の前のカウンターで、小ざっぱりした麻の服を着た三十代くらいの女性が、山賊焼き定食に箸をのばしているのが見えた。男でも食べきれないほどのボリュームである。彼女もやはり半分ほど残していたが、店員に持ち帰り用の紙袋を注文し、実に丁寧に紙袋に入れていた。帰り際に、すっとバッグを肩に立った時の姿勢の良さにも感心した。


 彼女は山賊焼きを旦那に子どもに自分用にと、あれこれ思案したのだろうか。 
 そして大糸線、松本電鉄上高地線、もしかしたら篠ノ井線、きっと夜汽車に乗ってポツンと帰るのだ。そう思った瞬間にフォークソングの名曲が頭の中に流れてきた。
 それからあずさに乗って東京に帰るまでの間、私の脳裏には“花嫁”の曲がリフレインしていた。松本は旅情の町だ。




【食べたり、書いたり、恋したり。】は、ほぼ隔週水曜日に掲載します。
 

文・イラスト:沢野ひとし(さわの ひとし)/名古屋市生まれ。イラストレーター。児童出版社勤務を経て独立。「本の雑誌」創刊時より表紙・本文イラストを担当する。第22回講談社出版文化賞さしえ賞受賞。著書に『山の時間』(白山書房)、『山の帰り道』『クロ日記』『北京食堂の夕暮れ』(本の雑誌社)、『人生のことはすべて山に学んだ』(海竜社)、『だんごむしのダディダンダン』(おのりえん作・福音館書店)、『しいちゃん』(友部正人作・フェリシモ出版)ほか多数。趣味は山とカントリー音楽と北京と部屋の片づけ。還暦後より中国語を学び続け、もはやライフワークでもある中国での放浪を綴った最新刊『中国銀河鉄道の旅』(本の雑誌社)が好評発売中。

●2019年8月18日(日)まで、栃木県・那須高原の那須ブックセンターで、沢野さんの原画展示即売会が開催中です。サイン本、オリジナル文庫カバーも同時販売。詳細は、那須ブックセンターをチェック。TEL:0287-78-2000 MAIL:info@nasubookcenter.jp

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