沢野ひとし【食べたり、書いたり、恋したり。】第39回『孫の散歩道』

きっと誰にとっても、“孫”とは、目の中に入れても痛くないほど可愛いくて、気になってしかたのない存在。イラストレーター・沢野ひとしさんが“食”にまつわる思い出や発見を、文章とイラストで徒然に綴る連載です。現在、沢野さんが心を込めて絵を描いた絵本、月刊『たくさんのふしぎ』9月号「一郎くんの写真 日章旗の持ち主をさがして」(福音館書店)が発売中。今だからこそ読むべき、大切なことが書かれています。そして、この連載『食べたり、書いたり、恋したり。』が本になります。9月6日(金)より、電子書籍として発売予定。どうぞお楽しみに!
私の家から息子の家までは、歩いて三十分の距離である。あたりは町田市の奥座敷といわれ、広々とした薬師池(やくしいけ)公園の、緑豊かな自然がたっぷり広がっている。その近くに標高128.5mのちいさな七国山(ななくにやま)があり、晴れた日は付近を通って、妻とよく散歩に出る。
散歩コースにはいくつかのルートがある。大きな池のある公園、鎌倉古道の面影を残した鬱蒼とした小道、春は黄色が鮮やかな菜の花畑と、その日の気分によって、妻と横一列に並んで兵隊の行進のごとく無言でひたすら歩く。
ある日「キミがいなくなったら、ここを歩く時に、きっといろいろ思い出して泣くだろうな」と私が言うと、妻は黙っていた。
妻の心の中には「孫」のことしか無かった。今は息子のところの小学校に入学したばかりの男の子と、保育園に通う三歳の女の子。この孫たちのことを一日中考え、溜息をつき、笑い、子ども服を買いにいそいそと出かける。
送電線の鉄塔が重なるように見える丘がある。鉄塔の後ろには奥多摩の山並みが墨絵のように広がっている。遠く新潟から電力が送られていると知った時は驚いた。この丘で落雷に出合ったことがあるが、多摩のカミナリは天に地に高く鳴り響き、阿鼻叫喚のごとくすさまじいものであった。この丘も、散歩コースのひとつである。
私は散歩の時に、いつも首から小型の双眼鏡を下げている。野鳥を見るためではなく、三歳の孫の、保育園の散歩コースを探るためである。
ある夏の朝に暗い木立の近くを通ると、やまゆりがたくさん開きかけていた。おそらく夕方までには花を広げるのであろう。その事を妻には教えず、小道を登り、丘の上から双眼鏡を覗くと、赤、緑、青の帽子をかぶった園児らが、集団になってこちらに歩いてきた。
「あっ」と孫を発見して私が一人はしゃいでいると、妻は力ずくで双眼鏡を私からうばい取って覗き込み、孫の名を夢中になって何度も呼んだ。やがて「あっ、こっちに来る」と小躍りして、なぜか乱れた髪を直し、はずかしそうにモジモジしだした。
小道を保育園の先生が先頭になり、その後をスズメのようなピイピイうるさい集団がやって来た。やがて孫が私たちに気づいて「おばあちゃん!」と大声を上げて両手を振っている。妻は手を胸のあたりで小さく揺らしていた。
園児のかたまりは、遠くなって行ってしまった。妻はうっとりした表情をして「あの子は一言もおじいちゃんと言わなかったわね」とうなずいていた。孫が卒園するまで、妻はこの散歩道を歩き続けるであろうと、私は確信した。
【食べたり、書いたり、恋したり。】は、ほぼ隔週水曜日に掲載します。
●【食べたり、書いたり、恋したり。】が電子書籍として9月6日(金)に発売予定!
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