沢野ひとし【食べたり、書いたり、恋したり。】第41回『疲れた体に果物は染みる』

カラッカラに渇いた喉を潤してくれた、命を繋ぐ果物の思い出を、あなたも持っているのでは。イラストレーター・沢野ひとしさんが“食”にまつわる思い出や発見を、文章とイラストで徒然に綴る連載です。沢野さんが食べる間も惜しんで描いた絵本、月刊『たくさんのふしぎ』9月号「一郎くんの写真 日章旗の持ち主をさがして」(福音館書店)が発売中。さらにこの連載『食べたり、書いたり、恋したり。』が電子書籍になりました! Amazonほか主要電子書店にて絶賛発売中です。
山に登った帰りはなにを食べても、体が歓喜するものだ。
少年の頃は青リンゴというものを知らなかった。国光(こっこう)、ゴールデンデリシャス、紅玉、インドリンゴはそれまでにも食べたことがあったが青リンゴは見たことがなかった。
二十歳の夏に穂高岳に登り、下山して上高地で小ぶりの青リンゴをはじめて食べた。ちょっと酸っぱく、サクサクした素朴な食感に感激した。その凛とした青みも忘れられない。夏に出回る青リンゴは、お盆のお供えなどにも使われると知った。
二十数年前、バリ島に椎名誠一派と二週間滞在したことがある。民宿でビールを飲んだり、観光用のケチャダンスを見学したりと、ただのんべんだらりとして過ごすのはバチがあたる。この際だからと、島で一番高いアグン山(標高3142メートル)に登ることにした。富士山と形は似ているが、呆れるほど急峻な登山道が、一直線に頂まで続いているのにはたまげた。こういう登山は、あわてず休まず、ひたすら念仏を唱え、自分と向き合いながら牛のごとくゆっくり登るのが最大のコツである。
大噴火を繰り返した頂上の火口が見えてきた時、「もうかんべんしてくれよ」と同行した四人で弱音を吐いていた。まだ暗い早朝から登りはじめて、昼ごろに汗まみれになりながら、無事登頂した。全員すでに水筒の水を飲み干し、目はうつろか血走っていた。
だが下りは逃げ足が早い。下の湖が見えてきた時、私は「よーし、あの水を全部飲んでやる」と湖畔に駆け寄った。すると現地の子どもたちがわらわらと我々を囲み、小川で冷やしたスイカを見せびらかすのであった。
「早く譲ってくれ」と言うなり、そのスイカは切られた。
「うぐうぐうぐうぐ」四人はスイカを両手でがっちり押さえ、種までも飲み込みながら、猛獣のように体を振って無我夢中でかじりついていた。素朴な甘味のないスイカが、乾いた喉に心地好い。食べ終わると全員しばらくへたり込み、天を仰いで物も言わなかった。しばらくして『バリ島はスイカだ』と椎名は静かにつぶやいた。
果物は現地で食べるのが最もおいしいと再確認するのは、やはり旅に出た時である。他の料理はすっかり忘れてしまっても、果物だけは妙に覚えていたりするものだ。
その果物を見るだけで、旅先で食べた時の味や記憶が蘇る。名古屋郊外の民宿で食べた、いちじくの甘く切ない瑞々しさは、一生忘れられない。朝食の水菓子は、朝採りのいちじくにかぎる、と確信した。
秋は果物を求めて南下しよう。
【食べたり、書いたり、恋したり。】は、ほぼ隔週水曜日に掲載します。
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