中澤日菜子【んまんま日記】#23 におい

あなたはどんなにおいが好きですか? 逆に苦手なにおいは? この連載では、母、妻、元編集者、劇作家という顔を持つ小説家であり、においが気になってしかたがない中澤日菜子さんが、「んまんま」な日常を綴ります。中澤さんの最新刊『お願いおむらいす』も話題沸騰中!

 食べものとにおいは切っても切れない関係にあると思う。
 たとえば鰻。
 暑い夏の夕暮れ、鰻屋さんの店先で、あの脂ののった香ばしいにおいを嗅ぐだけで、ふらふらと店内に入りたくなってしまう。
 焼き鳥も同じだ。じゅうじゅうという音とともにただよってくるタレのにおいで反射的に唾がわく。ビールの幟でも立っていたなら、もう完璧だ。胃がすっかり「焼き鳥ビール」モードに入ってしまう。
 朝方に嗅ぐコーヒーの香りもかぐわしい。
「新しい一日が始まるんだ。今日もがんばろう」と自然と思えてくる。
 あと食欲をそそられるものは、炒められているにんにくのにおいだろうか。
 オリーブオイル+にんにくならば美味しいパスタを連想するし、ごま油+にんにくであれば脳内に麻婆豆腐やレバニラ炒めのこんもり盛られた皿が浮かんでくる。バター+にんにくもパブロフの犬のように条件反射的にお腹がぐう、と鳴る。
 このように「美味しいにおい」は枚挙にいとまがないが、反面、食べたあとについてくるにおいは、しばしば他人を不快にさせる危険性をはらんでいる。

 わたしが苦手なのは、終電近く、大いに飲み食いしたおじさんたちが放つ「酒+たばこ+酸化したような脂臭」だ。もちろんおじさんたちにだって言い分はあろう。
「行きたくないのに上司に誘われて」だの「接待でどうしても断り切れず」だの。
 しかし疲れ果てて乗った電車で、飲み会臭を全身にまとったおじさんに四周を囲まれたときほどカナシイときはない。
 皺の寄ったジャケット、酒と脂でてらてら光る顔面や後頭部から強烈に放たれる居酒屋のにおい。
 しかも酔っぱらったおじさんはでかい声でよく喋る。会話が弾むのはけっこうだが、そのつど彼らの口中から吐き出される息に思わず「うっ」と手で顔を覆ってしまうこともしばしばある。女性専用車両があるのなら「酔ったおっさん専用車両」も設けてはどうかと鉄道各社に訴えたくなってくる。

 不快ではないものの、会ったひとが直前に食べたもののにおいが気になってしまうこともある。
 以前、某カメラマンさんとお会いしたとき。ふだん無臭の彼から、濃厚な蕎麦つゆの香りがただよってきたとたん、すぐにわかってしまった。「あー打ち合わせ前に駅で立ち食い蕎麦食べたんだなあ」と。駅蕎麦は意外ににおいがきついものなのだと、このとき改めて認識した。

 ほほ笑ましい「移り香」の場合もある。
 先日、混んだ朝の電車に揺られていたときのこと。長い髪をポニーテイルに結った可愛らしい女性が、こちらに背を向けて乗り込んできた。その髪からは、爽やかなシャンプーの香りに混じって、甘やかなはちみつと牛乳、そしてたまごのにおいがした。
 きっとこの子は一人暮らしで、これから働きに出るのだろう。朝シャンをして、それから食パンを切り、フレンチトーストにして、黄金色のはちみつをたっぷりかけて朝食にしたに違いあるまい。
 がんばれ、働く女の子! たくましく膨らむ妄想のなかで、わたしは彼女にエールを送ったのだった。

 と、じぶんが被害者? のシーンばかりを書いてきたが、もちろんわたしだって加害者になってしまう場合も多々ある。
 昼食に、刻みにんにくがたっぷりのった濃厚ラーメンを食べたあと、店を出たとたんに「しまった! このあとひとと会うんだった!」と気づく。吐く息は猛烈ににんにく臭い。あわててコンビニに飛び込み、口臭ケアのガムやタブレットを買い、ひたすらがりがり噛み砕く。それでもまだ臭い。もはやマスクで強制遮断するしかない。別のコンビニに入って、なるたけ顔にぴったり密着するマスクを買い求め、装着する。
 風邪が流行っているときや、花粉症の時期ならよいのだが、これが真夏だったりすると最悪だ。息苦しいし、なにより相手のかたに心配をかけてしまう。
「ナカザワさん、風邪ですか。調子の悪いときにすみません」
 ひたすら恐縮する相手に対し、違うんです、にんにく臭いだけなんです、とは口が裂けても言えない。それで「いえお気になさらず。たいした風邪ではないので。ごほごほ」と無駄な小芝居を打つことになる。
 気をつけよう、打ち合わせ前のにんにく。
 そのつどこころに刻むのだが、三歩歩けばすべて忘れてしまう酉年のわたしは、同じ過ちを何回でも犯してしまうのだった。嗚呼……



【今日のんまんま】
厚切りの牛タンが麦飯ととろろによく馴染んで、何杯でも食べられそう。んまっ。
(牛たん とろろ 麦めし ねぎし)



【んまんま日記】は、ほぼ隔週水曜日に掲載します。
 

文・イラスト・写真:中澤日菜子(なかざわ ひなこ)/1969年、東京都生まれ。慶應義塾大学文学部卒。日本劇作家協会会員。1988年に不等辺さんかく劇団を旗揚げ。劇作家として活動する。2013年に『お父さんと伊藤さん』で「第八回小説現代長編新人賞」を受賞。小説家としても活動を始める。おもな著書に『お父さんと伊藤さん』『おまめごとの島』『星球』(講談社)、『PTAグランパ!』(角川書店)、『ニュータウンクロニクル』(光文社)、『Team383』(新潮社)、『アイランド・ホッパー 2泊3日旅ごはん島じかん』(集英社文庫)がある。最新刊『お願いおむらいす』(小学館)が好評発売中。
Twitter:@xrbeoLU2VVt2wWE

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