沢野ひとし【食べたり、書いたり、恋したり。】第44回『北京秋天最好(北京は秋が一番いい)』

東京にもありそうでないものや、かつてあったけれどなくなってしまったものが、北京にはあるのかもしれません。イラストレーター・沢野ひとしさんが“食”にまつわる思い出や発見を、文章とイラストで徒然に綴る連載です。そしてこの連載『食べたり、書いたり、恋したり。』をまとめた電子書籍版が、Amazonほか主要電子書店にて絶賛発売中です。
三年振りに北京を訪れた。中国の首都北京は2008年のオリンピック以後、加速度的に発展、変貌を続けてきた。
一昔前に北京へ観光に来た者にとっては、驚くほどの規模で街が変化していくスピードに、戸惑いを覚えることだろう。
SF映画に出てきそうな、大胆な曲線を使用した近未来的なビルが次々と建てられる一方、日本の江戸時代、前期清代に造られた中庭を囲む伝統建築四合院(しごういん)がまだたくさん胡同(フートン)には残されている。胡同とは元代からの横町の路地のことであり、再開発によって、一時は次々と消失していったが、現在は市の行政が、むしろ保存の方向に力を注ぎ出した。胡同のトイレは水洗になり、ゴミも減り、雑然とした有様は姿を消して、多くの胡同が保存地区に指定されてきた。
北京の銀座といわれる繁華街、王府井(ワンフーチン)の隣に灯市口(トンシーコウ)という地区があり、今回はここに六日間宿泊した。表通り一帯には国際的な大型ホテルが集まっているが、一歩路地を胡同に入ると、昔ながらの北京の暮らしを味わえる。
泊まった「呆住・東方美人酒店」は、三年前に開業した、客室がたった九つの小さな四合院ホテルである。中庭には樹齢100年を越える太いナツメの木が空に伸びている。
部屋はシンプルな生成りで統一され、温かみがあり、使いやすい。北京で文人の隠遁生活、明窓浄机(勉強に適した明るく清らかな書斎)を味わいたい人にはおすすめの、典型的なプチホテルである。
フロントに徐倩倩(シュイチェンチェン)という、少しぽっちゃりした若い女性がいて、中国語がわからない私のような人にも親切に教えてくれる。名前の「倩」とは、うるわしい、美しいという意味である。
今年の九月に北京の南に新しい北京大興(だいこう)国際空港が開通したので、見学に行った。ザハ・ハディドの設計した、放射状に突き出たヒトデ形の五本の腕が奇妙な形をしている。内部は明るく、高い天井が大きくうねり、正にこれからの空港のあり方を示している。慣れてしまえば実に使い勝手の良い空港になるはずだ。訪ねたのが日曜日のせいか、多くの中国人観光客でごったがえしていた。私が訪ねた10月中旬は国内線にしぼられて発着していたが、じきに国際線の乗り降りが始まるという。
北京を旅して感心するのは、地下鉄やバスに乗ると決まって若者がすっと立ち上がり、席を譲ってくれることだ。十年前に来た時には「オレも年寄り扱いか」と不満に思ったが、今回も乗物に乗るたびに、譲られる回数はさらに多くなった。
日本では屈強な体格の若者さえも、スマホを見つめ知らん顔をして座っている。年長者やベビーカーを押した人に対しても、無視している。弱者に対して優しい北京のような都市は、これまで見たことがない。
秋空の北京の街を歩きながら、二十年前までは東京にもUFOが表れたが、今は北京に行ってしまったと、不意に思った。なんだか日本は政治も経済も置いてきぼりにされていく気がしてならない。来年は東京オリンピックだというのに、世の中はまるで余裕がなく活気がない。
帰る日にトランクを手にすると、突然大雨が降ってきた。空港行きのバス停までは、歩いて三分程である。思案に暮れていると、フロントの徐さんは大きな黒い傘を二本手にして「バス停まで行きましょう」とぶっきらぼうに言い、本がどっさり入った重いトランクを引きずり、水たまりの路地をさっさと歩いて行く。バスの運転手に「この日本人はターミナル3ですから」と念を押して心配してくれた。
「またかならず来ます」と力強く握手をすると「慢走!(お気をつけて)再見!!(さようなら)」と目を合わせた。バスは大雨の中をまるで泣きながら走って行くように、北京首都国際空港に向かった。
北京の通りは、渡り切るのに苦労するほど広い。私は太い街路樹のある大通りより、あえて胡同の細い道を迷いながら歩いた。歩きながら『赤毛のアン』を翻訳した村岡花子の言葉を何度も思い出していた。
「ほそい道には、ひろい、まっすぐの道よりもずっとたくさんの心の宝がそなえられてあるのです」村岡花子
【食べたり、書いたり、恋したり。】は、ほぼ隔週水曜日に掲載します。
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