新井由木子【まだたべ】vol.062 眠気に勝つの巻

どうしようもなく睡魔に襲われることは、大人になってもありますよね。そんなとき、あなたならどうする? “まだ食べたことのないもの”が気になって仕方がないイラストレーター・新井由木子さんが、食べるモノや関わるヒトと奮闘する日々を綴ります。

 あれはわたしが高校生の頃のこと。ある授業中にわたしを襲った眠気は、どうにも抵抗できないほどの凄まじいものでした。
 それは物理の時間でした。教壇では先生が、ブラックホールの説明をしていました。
 年配の男性の先生はとても小柄で、つるんとした顔に小さい目をしており、お話する声もとても小さいので、印象が薄く感じるのですが、よく観察してみると、頭髪は寂しくなっているのに耳からは逞しい毛がボサッと生えていました。一見、特徴が無さそうに見えて実は特徴があるというギャップが面白いのと、柔和な目がいつも微笑んでいるような優しい雰囲気から、わたしはこの先生に好感を持っていました。

 わたしは物理が好きでした。学校の勉強では物足りなくて、科学雑誌『Newton(ニュートン)』を毎月購入して、隅から隅まで読んでいたほどです。
 しかしこの時は昼食の直後で、お腹には、うっかり食べ過ぎたご飯がパンパンに詰まっていました。血液が全て胃袋のほうに集まっていくのがわかり、頭がボーッとします。
 黒板の前では先生が、いつものとても小さい声で、しかも抑揚のない調子で講義を続けています。それはもう子守唄を通り越して、眠りにいざなう呪文のように聞こえました。

 あらゆる身体現象を魔物のしわざと考えた時代が、日本にも世界各地にもありましたが、こんなにも自分で制御できない眠気は、眠りに誘う砂を振りかける魔物、“砂男”のしわざとしか思えませんでした。
 わたしは必死で目を大きく開き、黒板に描かれたブラックホールの図を見ていましたが、視界がぼやけるのを止めることができず、じりじりと眠りの淵へと落ちていくのでした。

 夢の中で、わたしは宇宙空間におり、目の前には黒々としたブラックホールが広がっていました。無限に広がる宇宙空間にただひとり、頼るものもなく浮かび、暗黒のブラックホールに吸い込まれていくのです。授業によると、ブラックホールの底まで行くと、人間はギュッと圧縮されてしまうのではなかったか。その恐怖はものすごく、とうとう吸い込まれる寸前、最後のあがきとしてわたしは力一杯足で空を蹴りました。
 するとガターンという大きな音がして、気がつくとわたしの前には、わたしに蹴り上げられて斜めになった机と、ギョッとした顔をしてわたしを見つめるクラスメイトたち。そして黒板の前には、わたしを見つめる先生の姿がありました。
 先生は何もおっしゃいませんでしたが、その小さな目は少し怒っているように見え、好きな授業、好きな先生だっただけに胸が痛みました。

 今は自身の営む書店で一日中店番をしていますが、実はここでも睡魔との闘いは密かに繰り広げられています。カフェコンバーションで出されるまかないが、かなりのてんこもりのため、あの物理の時間と同じ現象がわたしの身体に起きているのです。
 そんな時の眠気に対する対処法は、段階を踏んでいくつかあります。
 まずは、カフェコンバーションのガツンと濃いコーヒーを飲むこと。
 それでだめならデザインや原稿を書く仕事をやめて、絵を描いたり、ペレカスブックで作っている『記憶の本』(まだたべvol.050参照)というzineを組み立てるなどの、手を使う仕事をします。一番好きな絵を描く仕事は楽しいですし、手先を動かしていると、自然と眠気はどこかにいきます。
 しかし、それでも眠いという時があります。いくら手を動かしても、精度の低い仕事が出来上がるばかり。それではと、わざわざ立って作業してみても、立ったまま気を失ってしまいそうな眠気です。

 そんな時は最後の手段として、ペレカス店内にこっそりある大人向けの色っぽい本コーナーに行き、立ち読みします。これはかなりの効果があります。もうそういう事とはあまり縁のない年齢であるにもかかわらず、明るいカフェ内でそんな本を読んでいる緊張感と、内容のドキドキ感で目が覚めます。
 わたしが立ち読みしているのは、昔一度だけ挿絵を描いたことのある団鬼六先生の分厚い文庫です。1ページ読まなくても目が覚めるので、今までに何回もその本を開いています。姉御がやっと縛られたところまでしか読み進めておらず、まだ何も色っぽいことは始まっていませんけれども。

 それでも、席で居眠りしているわたしを見ることがあったら、それすら効き目が無かったのだと思ってください。



(了)


【まだたべ】は、毎週木曜日に掲載します。
 

文・イラスト・写真:新井由木子(あらい ゆきこ)/東京都生まれ。イラストレーター・挿絵描き。埼玉県草加市にある書店「ペレカスブック」店主。挿絵や絵本の制作のかたわら書店を営む。著書に『誰かの見たもの 口伝怪奇譚』『おめでとうおばけ』(大日本図書)、『まんじゅうじいさん』(絵本塾出版)ほか。「この世はまだ たべたことのないものだらけ。東京に近い埼玉県の、とあるカフェの中にあるペレカスブックで、挿絵や絵本を作りながら本屋を営んでいます。料理は上手ではないけれど、生まれ故郷の式根島と、草加せんべいの町あたりを行き来しながら、食べること周りのことを書いてゆきます」
http://www.pelekasbook.com
Twitter:@pelekasbook

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