沢野ひとし【食べたり、書いたり、恋したり。】第2回『白湯の力』

生きるうえで食べることは不可欠ですが、人生はそれだけではありません。寝たり起きたり、仕事をしたり、人に会ったり、旅に出たり。ときには恋もすれば、辛い別れもあります。一見、食べることとは無縁でも、忘れかけていた人生の一場面が、舌の記憶とともに鮮やかに蘇ることもあるでしょう。この連載では、イラストレーター・沢野ひとしさんが、人生のさまざまな場面で遭遇した“食”にまつわる思い出や発見を、文章とイラストで徒然に綴ります。

 中国大陸各地を旅行するようになって六年ほどたつが、「白湯」の力を再認識した。
 はじめて中国に入ったのは二十数年前で、それまでは欧米の文化、ファッションに憧れを持ち、中国には見向きもしなかった。
 だが西安を訪れて、その歴史の深さに感銘を受けた。とりわけ秦始皇帝陵の兵馬俑坑には圧倒され、その後二回も行き、柵から身を乗り出すかのごとく、毅然とした兵士を見つめていた。

 西安は餃子の名店が多い。現地ガイドに案内された店に入り、食卓の前に座ると、アルマイトのやかんが無愛想に置かれてあった。
 団体ツアーの一人が湯呑みに注ぐと、ただの湯であった。みんな呆れた顔をして沈黙してしまった。
 まわりの中国人観光客は、ただの湯を「和みますなぁ」といった表情でおいしそうに飲んでいる。各自持って来た魔法瓶に、やかんの湯を注いでいる。さらに店の角にあるボイラーにも人が群がっている。
 「みんな白湯を愛しているのだ」
 私は上から目線でその姿をじっと見つめていた。

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 その後二十回近く中国を旅すると、中国は水が悪いせいもあるが、お茶よりもとにかく「白湯」が好きで、生活から切り離すことができない人種だと気づかされた。

 一番通った都市は北京である。いつの間にか出版社、画廊、映画関係と知り合いが増えてきた。そんな中の一人に背の高い女性編集者がいた。目元が涼しげで、まるで中国語教材のテープを聞いているような発音の美しい人である。ある時バッグの中から小さな魔法瓶を取り出した。「お茶」と聞くと首を振り「白开水(バイカイシュウイ)」と言った。白湯のことである。何十年と白湯ばかりを飲んでいると言った。食事の時も白湯という。美肌とダイエット効果もある、と微笑む。

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 中国に行くようになって一番影響を受けたのは、もしかしたらこの白湯である。朝起きたらまず一杯の白湯からスタートする。そして仕事に取り掛かるのだが、近くには白湯の魔法瓶が置いてある。具体的には「体がスッキリ」している。お酒を控えているせいか、朝の目覚めが抜群に良くなった。

 朝から晩までコーヒーやお茶、アルコール類を飲んでいれば、そのうち老化がはじまり体の中が疲れてくるのは確かである。
 太古の時代から人は白湯で生きてきた。健康サプリメントよりは安上がりである。



【食べたり、書いたり、恋したり。】は、ほぼ隔週水曜日に掲載します。
 

文・イラスト:沢野ひとし(さわの ひとし)/名古屋市生まれ。イラストレーター。児童出版社勤務を経て独立。「本の雑誌」創刊時より表紙・本文イラストを担当する。第22回講談社出版文化賞さしえ賞受賞。著書に『山の時間』(白山書房)、『山の帰り道』『クロ日記』『北京食堂の夕暮れ』(本の雑誌社)、『人生のことはすべて山に学んだ』(海竜社)、『だんごむしのダディダンダン』(おのりえん作・福音館書店)、『しいちゃん』(友部正人作・フェリシモ出版)ほか多数。趣味は山とカントリー音楽と北京と部屋の片づけ。