沢野ひとし【食べたり、書いたり、恋したり。】第3回『帝国ホテルのバー』

生きるうえで食べることは不可欠ですが、人生はそれだけではありません。寝たり起きたり、仕事をしたり、人に会ったり、旅に出たり。ときには恋もすれば、辛い別れもあります。一見、食べることとは無縁でも、忘れかけていた人生の一場面が、舌の記憶とともに鮮やかに蘇ることもあるでしょう。この連載では、イラストレーター・沢野ひとしさんが、人生のさまざまな場面で遭遇した“食”にまつわる思い出や発見を、文章とイラストで徒然に綴ります。

 帝国ホテルの二階にある、オールドインペリアルバーをこよなく愛している。しっとりとした大人のバーである。ここでお酒を飲んでいる時が至福の時間といえよう。
 早い夕方からひたひた飲むのが理想である。一人の時、軽い仕事の打ち合わせ、デートの時、この三十数年本当にお世話になってきた。多い時は月に二、三回ということもある。

 照明を少し落した広い空間に、きびきびと働くボーイ。無駄口はきかないが、さりげない親切心。音楽が流れていないのも落着く。
 いつも決まって注文するのは、ドライマティーニかウイスキーのハイボール。小腹がへっている時は生ビールにアメリカンクラブハウスサンドイッチ。エスカルゴの香草バター、チーズの盛り合わせ、にしんの酢漬けなどを注文する。
 何十年と口にしてきたが、その変わらないカクテルに変わらないサンドイッチの味。この安心感が人を和ませる。

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 フランク・ロイド・ライトの設計が現在も息づいているのが、このオールドインペリアルバーである。店内の大谷石、壁のテラコッタ、イスやテーブル、さらにグラスがライトの面影を伝えている。こんな贅沢なバーは世界広しといえどここだけである。

 十代の終わりに旧帝国ホテルのレストランで兄と何度かコーヒーを飲んだことがあるが、玄関前の池を回ったアプローチを今も思い出す。そして大谷石の柱に施された、マヤ文明のような装飾模様が呪術的に思えて、近寄りがたいものがあった。大人になりバーでお酒を飲んでいる時に、はじめて帝国ホテルに来た時の事を良く思い出す。

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 つい最近大手広告代理店の女性とバーでまちあわせた。メールに「カエルのような顔をしているからすぐに分かります」とはじめて会う自分の特徴が書いてあった。
 グラスをかさねるとたしかに目と目がはなれていてカエル顔であった。

 しばらく雑談して、仕事のはなしになった。
「こういうダンスをしているイラストを描いて欲しいのです」。
 そういってカエルはバーの丁度真ん中で、両手をのばし体を反ってみせた。
 近くにいた客もボーイもあえて無関心な素振りをしていた。




【食べたり、書いたり、恋したり。】は、ほぼ隔週水曜日に掲載します。
 

文・イラスト:沢野ひとし(さわの ひとし)/名古屋市生まれ。イラストレーター。児童出版社勤務を経て独立。「本の雑誌」創刊時より表紙・本文イラストを担当する。第22回講談社出版文化賞さしえ賞受賞。著書に『山の時間』(白山書房)、『山の帰り道』『クロ日記』『北京食堂の夕暮れ』(本の雑誌社)、『人生のことはすべて山に学んだ』(海竜社)、『だんごむしのダディダンダン』(おのりえん作・福音館書店)、『しいちゃん』(友部正人作・フェリシモ出版)ほか多数。趣味は山とカントリー音楽と北京と部屋の片づけ。