沢野ひとし【食べたり、書いたり、恋したり。】第6回『目に涙、口から火を吹く火鍋人生』

生きるうえで食べることは不可欠ですが、人生はそれだけではありません。寝たり起きたり、仕事をしたり、人に会ったり、旅に出たり。ときには恋もすれば、辛い別れもあります。一見、食べることとは無縁でも、忘れかけていた人生の一場面が、舌の記憶とともに鮮やかに蘇ることもあるでしょう。この連載では、イラストレーター・沢野ひとしさんが、人生のさまざまな場面で遭遇した“食”にまつわる思い出や発見を、文章とイラストで徒然に綴ります。

 北京オリンピック(2008年)に大勢のメディア関係者が取材に行ったが、帰国した友人の話は「火鍋が凄かった」「火鍋はやみつきになる」と激辛の鍋料理に終始した。
 七年前に私はなんの目的もなく北京を電撃訪問した。そして歴史、文化に触れることなく、火鍋にしびれた。その後10回近く訪れたが、行くたびに、市内の火鍋の店で汗だくになって一人火を吹いていた。

 自信をもって勧められるのは、地下鉄10号線団結湖駅の近く「海底撈火鍋(かいていろうひなべ)」である。「撈」とは「すくい上げる」意味で、海の底からすくい上げる火鍋といったところか。その名のとおり、魚の種類も多く新鮮である。
 唐辛子と山椒がたっぷり入った真っ赤な激辛スープと、鶏とキノコを煮込んだ白いスープの二種で、親子共々楽しめる。スライスされた肉からはじまり、野菜、パクチー入り肉団子、湯葉、タケノコ、豆腐と箸が止まらない。締めには職人が目の前で麺を打つパフォーマンスがあり、打ちたての麺はキノコスープとの相性も抜群である。
 辛くしびれた後のデザートも見逃せない。ごま団子、白玉団子、杏仁豆腐、ライチ、タピオカに「うーんこれぞ本物の味」と大袈裟に両手を震わせる。

 「海底撈火鍋」は中国本土で100店舗以上と破竹の勢い。北京・上海ではすでに30店は越えている。
 日本では池袋と、昨年の12月に新宿区歌舞伎町にオープンした。早速知人の中国人と新宿店に乗り込むことにした。天井が高く、その高級感ある開放的な空間に「ついにここまで来たのか海底火鍋は」とおののく。
 本場四川から空輸された香辛料や食材は、北京で口にした味とまったく変わることがなかった。まずは辛くない白いスープを飲むと、思わず「好吃(おいしい)」「好香(いい香り)」と中国語がでてくる。ドリンクは飲み放題、果物が食べ放題と大らかなところも素直にうなずく。

 午後7時、客はほとんどが中国人で満席状態。驚くのはビールなどの酒類がテーブルの上にほとんど並んでおらず、なんと白湯を手にしているのだ。汗だらけになりながらも、体をなおも温めている。これぞ「中国人」と納得した。我々も白湯を手に、羊の肉や野菜類を追加する。



【食べたり、書いたり、恋したり。】は、ほぼ隔週水曜日に掲載します。
 

文・イラスト:沢野ひとし(さわの ひとし)/名古屋市生まれ。イラストレーター。児童出版社勤務を経て独立。「本の雑誌」創刊時より表紙・本文イラストを担当する。第22回講談社出版文化賞さしえ賞受賞。著書に『山の時間』(白山書房)、『山の帰り道』『クロ日記』『北京食堂の夕暮れ』(本の雑誌社)、『人生のことはすべて山に学んだ』(海竜社)、『だんごむしのダディダンダン』(おのりえん作・福音館書店)、『しいちゃん』(友部正人作・フェリシモ出版)ほか多数。趣味は山とカントリー音楽と北京と部屋の片づけ。