沢野ひとし【食べたり、書いたり、恋したり。】第11回『押し寿司の季節がやって来た。』

生きるうえで食べることは不可欠ですが、人生はそれだけではありません。寝たり起きたり、仕事をしたり、人に会ったり、旅に出たり。ときには恋もすれば、辛い別れもあります。一見、食べることとは無縁でも、忘れかけていた人生の一場面が、舌の記憶とともに鮮やかに蘇ることもあるでしょう。この連載では、イラストレーター・沢野ひとしさんが、人生のさまざまな場面で遭遇した“食”にまつわる思い出や発見を、文章とイラストで徒然に綴ります。

 我が人生はずっと押されっぱなしの日々であった。積極的に自分から押すのは、二ヶ月に一度の押し寿司くらいのものであった。長方形の木型にすし飯を詰めて、魚介をのせるこの押し寿司には、私の屈折した幸せがぎっしり詰まっている。押し寿司のうれしいところは、手作りの家庭料理ということにつきる。



 まずはおろした魚の身の両面に塩をこすり、米酢をかけ、スライスしたスダチをのせ、しばらく冷蔵庫に置いておく。アジ、サバなどの青物系の魚が押し寿司には適している。マグロ、タコ、エビなどの水っぽい魚介類は避ける。

 寿司は「しゃり」が大切である。次は酢飯を作ろう。米をすばやく研ぎ、ザルにあげておこう。炊飯器に昆布一枚、酒大さじ一杯、研いだ米を入れ、水加減をして三○分ほど浸けて、ご飯をかために炊く。
 酢は米酢と穀物酢を混ぜる。砂糖少量、塩をパラリと入れ、小鍋に入れて沸騰手前まで熱する。ご飯が炊けたら昆布を取り出し、山型にご飯を寄せて合わせ酢を回し入れ、切るように混ぜる。白ゴマを振ってうちわであおぎ、冷ましたら酢飯の完成。

 押し型となる木の容器にクマ笹を敷いたら、酢飯を入れて、魚の切り身をのせ、カブ、レンコン、オクラなどのキザミ類も並べ、輪切りのスダチを散らし、あとはひたすら押し込み、最後は重し用の重い辞書をのせる。

 人間は大きく二種類に分けられる。料理本のレシピを読む人と読まない人。またはケイタイ、スマホ、カメラ、パソコンなどの取り扱い説明書を読む人と読まない人。
 読まない人は我が道を進む。自分勝手、思いやりがない。芸術肌。押し寿司に向く。
 読む人は人の話をじっくり聞く。周りの空気を察する。結婚生活が円滑に進む。この人も押し寿司に向く。つまり押し寿司は、失敗というものが極めて少ない料理である。

 全国各地には押し寿司文化が今も脈々と伝わっている。押し寿司の文化を探ると、気候や風土、その土地の特産物、行事などによって、独自の押し寿司が生み出されてきたことがわかる。
 各地の押し寿司を夢見て、「今度こそは」と自宅で作り、その奥深い日本の文化を味わおう。





【食べたり、書いたり、恋したり。】は、ほぼ隔週水曜日に掲載します。
 

文・イラスト:沢野ひとし(さわの ひとし)/名古屋市生まれ。イラストレーター。児童出版社勤務を経て独立。「本の雑誌」創刊時より表紙・本文イラストを担当する。第22回講談社出版文化賞さしえ賞受賞。著書に『山の時間』(白山書房)、『山の帰り道』『クロ日記』『北京食堂の夕暮れ』(本の雑誌社)、『人生のことはすべて山に学んだ』(海竜社)、『だんごむしのダディダンダン』(おのりえん作・福音館書店)、『しいちゃん』(友部正人作・フェリシモ出版)ほか多数。趣味は山とカントリー音楽と北京と部屋の片づけ。