沢野ひとし【食べたり、書いたり、恋したり。】第20回『哀愁の温泉宿と椎名誠』

生きるうえで食べることは不可欠ですが、人生はそれだけではありません。寝たり起きたり、仕事をしたり、人に会ったり、旅に出たり。ときには恋もすれば、辛い別れもあります。一見、食べることとは無縁でも、忘れかけていた人生の一場面が、舌の記憶とともに鮮やかに蘇ることもあるでしょう。この連載では、イラストレーター・沢野ひとしさんが、人生のさまざまな場面で遭遇した“食”にまつわる思い出や発見を、文章とイラストで徒然に綴ります。
コートのエリを立てる季節が訪れると、不意に温泉が恋しくなる。出版界が元気だった二十年前は、箱根湯本の温泉宿で対談や新刊の打ち上げなどと、多い時は年に四、五回は温泉卵を口にしていた。
滞在した老舗旅館は明治初期から文人墨客が投宿しており、玄関ロビーには、文豪や画伯の名がさりげなく示されていた。
湯殿は地階にあり、白っぽい湯がとうとうと掛け流しされている。湯に体を沈めると、ゆったりと風情ある温泉が真綿のように包み込んでくれる。
いつも私は集合時間より早目に行き、夕方の五時には一人でゆっくりと、湯と戯れている。ひっそりと眠ったような静かな時間である。
突然、階段を怪獣のような音を立てて誰かが下りてきた。湯殿のドアを開け「早いな、もう来ていたのか」と椎名誠は言うなりトドのように荒々しく湯に飛び込んでくる。真っ黒に日焼けした体に、真綿の白い湯は異質な感じがした。
※【食べたり、書いたり、恋したり。】は、世界文化社公式noteに移転しました。
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文・イラスト:沢野ひとし(さわの ひとし)/名古屋市生まれ。イラストレーター。児童出版社勤務を経て独立。「本の雑誌」創刊時より表紙・本文イラストを担当する。第22回講談社出版文化賞さしえ賞受賞。著書に『山の時間』(白山書房)、『山の帰り道』『クロ日記』『北京食堂の夕暮れ』(本の雑誌社)、『人生のことはすべて山に学んだ』(海竜社)、『だんごむしのダディダンダン』(おのりえん作・福音館書店)、『しいちゃん』(友部正人作・フェリシモ出版)ほか多数。趣味は山とカントリー音楽と北京と部屋の片づけ。
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