沢野ひとし【食べたり、書いたり、恋したり。】第22回『ドンブリの彼方へ』

生きるうえで食べることは不可欠ですが、人生はそれだけではありません。寝たり起きたり、仕事をしたり、人に会ったり、旅に出たり。ときには恋もすれば、辛い別れもあります。一見、食べることとは無縁でも、忘れかけていた人生の一場面が、舌の記憶とともに鮮やかに蘇ることもあるでしょう。この連載では、イラストレーター・沢野ひとしさんが、人生のさまざまな場面で遭遇した“食”にまつわる思い出や発見を、文章とイラストで徒然に綴ります。
中学生も終わりの二月に、地元の千葉駅前の食堂で父親と一緒にはじめてカツ丼を食べた。それは私立高校受験の親子面接の後の、夕暮れ時であった。意地の悪い試験官の質問に、私は何も答えることができなかった。
蓋を持ち上げたその瞬間の、甘い香ばしい匂い、とろける卵。汁が染み込んだご飯の味。この世のものとは思えないおいしさであった。受験のことを忘れるカツ丼の思い出だけが残った。
高校生の頃から山登りに没頭していた。北アルプスを登った帰りは、山仲間と松本駅の周辺でカツ丼を食べて締めくくるのが習わしであった。湯気が上がるドンブリを前に体の芯から震えた。
カツ丼は「ガツガツ」「ワシワシ」と音をたて一心不乱に箸を動かし、一瞬の迷いもあってはならない。最後のご飯粒一つまで残さず完食したら、「フーッ」と一息ついて空を見つめる。丼物に品を求めてはいけない。
この国民食、カツ丼を定着させたのは、ある説によると明治三十年代の甲府市内の蕎麦屋である。出前が冷めないように、ご飯の上に揚げたてのカツを乗せ、卵でとじて完成させたらしい。だが丼物の元祖は鰻丼で、話は江戸時代にまでさかのぼる。
芝居の興行に関わっていた大久保今助(いますけ)は、ひいきの大野屋から毎日のように鰻丼を楽屋へ届けさせていた。その頃は熱いご飯と蒲焼きは別々であった。多忙な今助は、ご飯の間に蒲焼きを入れたら、保温にもなるし、そのまま食べられると大野屋に提案した。これが鰻丼のはじまりである。我々は大久保今助と大野屋に深く感謝しなくてはならない。
私もサラリーマンになり、いくらかお金の余裕が出てくると、親子丼、天丼に海鮮丼、アサリを炊き込んだ深川丼と、思うままに丼物を食べてきた。ふと考えると、これらの丼物は炊いたご飯がふっくらしていないと失敗作になることに気が付いた。いくらか固めに炊き、上物の具の汁を染み込ませた時に、ご飯をベチャッとさせないのが大切な点である。もしかしたら、極端に言えば上物は飾りなのだ。
ある時、都内の高級鰻店で、出版社の奢りで鰻を食べた。相手はしおらしく鰻重であり、私はキッパリと鰻丼であった。鰻を口にすると皆、会話はピタリと止まる。
私は鰻丼の地層の断面がくっきりと見えるように、片側だけ掘りながら食べ続けていた。鰻のたれがどの層まで到達するかをじっと見つめながら、作業に専念した。
店を出る時、編集者の若い男はぽつりと言った。
「不思議な食べ方をする方なんですね」
そして角を曲がり、消え去って行った。人の悲しみや苦しみをも、鰻丼は忘れさせる。
【食べたり、書いたり、恋したり。】は、ほぼ隔週水曜日に掲載します。
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